そして85年の6月。僕はアメリカに入国を果たすことになる。
 アメリカに入りさえすれば、僕の計画の90%は達成されたと言っていいくらいこの国への入国は旅のファイナルに近いものだった。拘りさえ持たなければ生きていくための仕事は必ずある。それから法を無視することになるが、入り込んでオーバー・ステイをしても、嫌な顔をされるくらいで出国はいたって簡単という話は聞いていたので、とにかくうまく入国するということだけが問題だった。
 その問題をクリアーできたのだから、アメリカ、ニューヨークに入りたての頃の僕は凄く充実した気分になっていた。
 仕事の方もとりあえず食べていくだけのバイト的なものはすぐに見つかった。アメリカには世界中から集まって来て、僕のように不法就労、不法滞在をしているあつかましい仲間達が沢山いる。そんな連中の中に紛れ込んで、もっと自分に合ったいい条件のしごとを見つけるチャンスもあるのだから、これまでと違って気分的には楽だった。

 そんなニューヨークの僕のところに、有紀から「行くから。」という連絡が入ったのは7月の中頃だった。
 8月のあたまからロス・エンジェルスの本社での研修に参加することになり、その前にニューヨークに立ち寄って僕に会うことにしたのでよろしくというものだった。
 有紀が現実に訪ねてくると言い出して、僕は期待よりもむしろ動揺してたみたいだった。2年という時間は男としての僕をあまり成長させてはいない気がしたが、女性の2年は容姿も雰囲気もずいぶん変化させているにちがいないと僕は思った。だからいざ2年ぶりに有紀に会うとなると、やはりなにか照れくさい気持ちになるのは仕方がないかなと思った。有紀が到着するまでの2週間の間、僕はどんな風に彼女を迎えればいいのか、何の話を持ち出して話せばいいのか、毎日つまらないことばかり考えて過ごしていた気がする。

 だけどそんな心配をよそに、ジョン・F・ケネディー空港の到着ロビーに出てきた有紀は、一目散にかけ寄って来て僕に飛びついてきた。
 これには僕の方が面食らってしまい、しばらくの間僕はどうしていいものか有紀を抱いたまま立ち尽くしてしまったのだけど、どうもそれがよほど有紀にはおかしかったのか、僕の顔をマジマジと見るなり腹を抱えて笑い出してしまった。
 そんな訳でのっけから僕の想像をはるかに超える積極さを見せ付けられて、有紀がニューヨークに滞在した3日間、すっかり僕は彼女にペースを握られた感じだった。というよりもその時僕にはニューヨークに来て出来たイギリス人のマイクとフランス人のパトリックという友達がいたのだけど、この2人も含めてといった方がいいかもしれない。

 初めてのニューヨークで有紀は活発に動き回った。歩いた方が周りを気にせずにゆっくり話が出来るからといって、地下鉄やバスを使おうともせず、ただひたすらマンハッタン中を歩き回るのだった。
 僕は有紀が巻きつけてくる腕の温もりを感じながら、ただひたすら彼女のペースに合わせて歩いた。それまで女ッ気のなかった僕は、有紀がすぐ側にいることが時として不思議に思えることが何度もあったが、有紀の何気ない仕草や横顔、それから必ず僕の顔を覗き込んでしてくる質問にドギマギしながらも、少しずつ彼女の存在を実感できるようになっていった。
 そして近い将来こんな付き合いが日常的にできるだろうと思うようになっていた。



 有紀がニューヨークにいたのはたった3日間だった。
 僕はあの時、たとい2年ぶりの再会がたった3日間で終わっても、自分達の将来にはまだまだその何十倍もの時間が残されているものだと信じていた。だからあの時の僕は、有紀が短い滞在であっても幸せな時間を過ごせることだけ考えていた。
 だけど神様は僕の人生の中で、たった3日間という時間しか有紀と過ごせる時を与えてはくれなかった。2年離れて暮らし、やっと自らの手で相手に触れることのできる距離にお互いを置けたのは、たったの3日に過ぎなかった・・・。
 僕達にとって、一生の中でそれが唯一の時間とわかっていたら、僕にはもっともっと有紀と話しておきたかったことが沢山あった。彼女の温もりを体全体で感じておきたかった。瞼の奥にもっともっと多くの有紀の姿を刻んでおきたかった。
 僕の前に現れたあの人を、あのままもっともっと抱しめ続けていたかった・・・。



それぞれの別れ



 秋が来て冬が来て年が変わり、半年経っても僕と滝さんと、それからも相変わらずバツが悪そうな顔をして側にいたり、かと思えば遠くから僕達を眺めている重さんと、いつの間にかしょっちゅう来るようになったゴギの付き合いは続いた。
 この頃になるとホームの方でもすっかり僕のことは知れ渡っているらしく、僕が無断で敷地に入り込んでいても誰も何も言わなくなった。それどころか60歳過ぎの園長までもが、たまに出てきては世間話をするようにさえなっていた。
 たださすがにいつまでも同じ場所に座っては、塀に開いた同じ穴ばかりを眺め続ける僕を滝さん達も不思議に思うようになったらしく、ある日滝さんが僕の側に来て腰を下ろすと、アゴで塀に開いた穴をしゃくって僕に言った。
 「兄ちゃん、もしかしてあんたには、オーストラリアに何か特別な思い出でもあるんか。ここまでこうして同じ場所に座り続けられると気になってしょうがないわ。普通な、こんなにつまらん所に来て、あんななんでもない穴ばかりじっと見るような暇人おらんで。」
 滝さんは僕を一瞥してそう言ってから、いつものように懐から安もんのタバコを取り出すと、火を付けて旨そうに大きく吸い込んだのだけれど、急にむせ込んだらしく激しく咳き込んだ。

 僕はその時、聞かれたことにどう答えようかと一瞬構えかけたが、滝さんの咳き込み方があまりにもひどいので滝さんの方に向き直り、咳き込む滝さんの背中に手を回した。
 「滝さんどうしたのかなァ。あんまり良い咳じゃないようだけど。」
 滝さんは苦しいのか口を手で押さえたまま、僕に大丈夫というように大きく手を振った。
 「大丈夫かい。園長先生呼んでこようか。この前頃からどうも滝さんひどく咳き込むようになったね。タバコはよした方がいいよ。」僕は滝さんの正面に回り顔色を伺おうとしたのだけれど、息遣いは相当乱れていた。
 「おや、ばっちゃ。どうしたの。苦しそうじゃないか。」
 その時背後から大きな声がするので振り向くと、建物の中からゴギが心配顔でかけて来るところだった。ゴギは滝さんの様子を伺うと建物に取って返し、コップに水を汲んできて滝さんに差し出した。

 「ゴギ。おまえ来てたのか。でも助かったよ、どうしようかと思った。」僕は滝さんの背中をさすりながらゴギに笑いかけた。
 「ショウさんが来たのは見えてたんだ。でもちょうど園長先生と話しててね。そしたら滝さんがショウさんがここに座り込むのと同時に出て行っただろ。それで園長先生がこの寒さの中、滝さんが外に出るのはマズイと言うもんだから、僕は滝さんを止めに出てきたのさ。」そういってゴギは少し落ち着いてきた滝さんに中に入るよう促したのだけれど、滝さんは動こうとはしなかった。
 「ゴギちゃん、ありがとうな。でも、もう少し新鮮な空気を吸わせておくれな。それに今日はこの暇人にどうしても聞きたいことがあってな。」
 ゴギは園長先生に連れて入るように頼まれているので、それでもしつこく滝さんに催促するのだけれど、それでも滝さんは頑として譲ろうとはしなかった。
 「で、何をショウさんにそんなに聞きたいんだい。」ゴギは諦めたらしく、そう言って滝さんの側に腰を下ろした。
 「この暇人がどうしてこうも同じ場所に座って、同じ穴ばかり眺めるのか聞きたいんじゃ。」ゴギは何か言おうとしたが、言葉を飲み込んで一瞬僕の顔をチラッと見た。



 寒さが体にさわるからよくないという園長先生の願いもあり、僕は中で話すからということで納得してもらい、滝さんを連れて建物の中に入った。
 気の利くゴギは温かいお茶を貰って来るといってキッチンの方にかけて行った。
 僕は入り口のすぐ右手にあるロビーのソファーに滝さんを座らすと、滝さんに羽織らせるものを取りに部屋まで上がっていった。その間まだ少し苦しかったのか、滝さんはソファーに横になったまま動こうとはしなかった。
 これといってめぼしい所持品がなかったもので、とりあえずベッドの上にあった肩掛けをを持って下りてきた僕は、それを滝さんに掛けてやると、そこに横たわっている老婆の顔をじっと見つめた。
 そしていったいどこから自分の中に封じ込めてある昔の話を切り出せばいいのか僕は迷った。
 「兄ちゃん、ありがとな。気を使わせてしまったな。だけど兄ちゃんの難しそうな顔を見てると、わしは兄ちゃんに無理なことを聞いたかの。」滝さんは少し目を開けて僕の方を見た。
 「そうでもないさ、滝さん。恥ずかしい話じゃないし、いつかは話さなけりゃいけないかなと思ってたからね。」僕はそお言って側に腰掛けた。

 「実はね、以前オーストラリアに居た頃、あの国で知り合った女性がいてね。半年前、あの塀に開いた穴から、たぶん本当に偶然だろうけど、懐かしいオーストラリアの風景に似たものを見ただろ。あの時僕はあの風景を通して実は彼女を見ていたんだ。個人的な話を他人にするのは恥ずかしいけれど、あれからというもの、もしかして同じような風景が現れたら、そこに彼女もいるような気がしてしまってね。ついつい通うようになってしまったんだ。」
 僕はオーストラリアで有紀に初めて会った日のことから、その後ずっと海外を歩きながら手紙で交信をとったこと。彼女には婚約者がいたのだけれど、有紀が婚約を解消してしまったこと。ニューヨークに訪ねて来てくれたこと。それからしばらくして有紀が飛行機事故で死んだことを話して聞かせた。
 滝さんはずっと横になったまま目を閉じて聞いていたんだけれど、有紀が死んだということがわかると、急に起き上がってソファーに座り直した。
 「そうか。兄ちゃんにはそんなことがあったのか。そうだったのか・・・。ごめんな、辛い話をさせてしまったなァ。」
 そういうと両手を前で合わせて肩を落とすのだった。

 「滝さん。ショウさんはね、もう有紀さんが死んで8年も経とうというのに、いまだに有紀さんの墓に会いにいってないんだよ。どう思う。」
 いつの間に来ていたのか、ゴギがお茶を手に持って入り口のところに立っていた。
 「僕はショウさんという人間は好きなんだけれど、そこのところだけはどうしてもわからない。有紀さんが死んでショウさんがニューヨークからロス・エンジェルスに移ったすぐ後に、僕はショウさんを頼ってロスに行ってそのことを知ったんだけれど、ショウさんは帰国しようともしなかったよね。普通自分が大切に思う人が死んでしまったら、何をおいても駆けつけるもんじゃないか。なのにこの人ときたら・・・。」
 何度同じことをゴギに言われただろうと思いながらも、僕は黙って聞いていた。

 「ゴギちゃん。この兄ちゃんには兄ちゃんなりの気持ちがあるんだよ。そんな薄情な男じゃないよこの人は。よっぽど大事な人だったんだろうねェ。まだ吹っ切れないものがあるから、こうしていつまでも思い出に浸ろうとしてここに通い続けてるじゃないか。心のけじめのつけ方は人それぞれだ。早くできるものもいれば時間のかかるものもいる。一生かかってもかまやしないさァ。兄ちゃんは兄ちゃんなりに心の整理をすればいいことだ。長く生きてきたババがそお思うんだからわかっておやりよ。」
 僕は有紀が死んだことを知った日から泪を流さないように努めてきた。というよりも堪えることをやめて素直に感情をだしてしまうと、自分がどうなってしまうかわからないくらい崩れてしまいそうな気がしたからそうしてきた。そんな僕にはこんな優しい言葉は辛かった。思わず熱いものが込み上げてくるのを僕は一生懸命こらえるしかなかった。

 「だけど兄ちゃん。もうそれほど人生が長くないババから言わせてもらえばなァ、一分一秒、一日1月という時間は、本当に瞬きする間に終わってしまうぞ。あんたら若いもんは一分、一秒を本当に無駄にしたらいけん。人の死は誰にもおとずれるもので世の中の常だ。人間誰だってここまで歳を取るとな、死というものをいつでも受け入れる覚悟は自然にできるもんだ。そうなった時に、人生を振り返って悔やむようなことはないにこしたことはない。自分が良しと思ってやれることは、たとえそれが無駄なものになってもやったほうがいい。」
 滝さんがそおいって僕を見つめた目は、恐ろしいくらい真剣だった。
 「わかったよ、滝さん。もうわかったから部屋に帰ろう。」
 その時の僕には返せる言葉は何もなかった。たとえ広い世界からみればほんの小さな、スポットの当たることなどないような日本の片隅で暮らしてきたとしても、何十年という間に様々な人生経験を積んで、苦境を乗り越えて生きてきた人間の言葉には逆らえない重みがあった。



 滝さんを部屋まで送った僕とゴギはそのままホームを離れた。
 僕の中で滝さんが最後にいった言葉がいつまでも尾を引いていた。僕は自分が何十年後かに死と向かい合う立場になって人生を振り返ったとき、果たして自分で自分の人生に納得できて死ねるだろうかと考えていた。少なくても僕はこれまでの人生を、普通の日本人が送るようなありふれた人生とは違った形で送ってきた。そのことに対しては十分自分で納得も満足もできていた。ただ、今の自分とこれからの自分の人生を想像すると、滝さんがいうように自分で良しと思えるような道を歩んでいるとは思えなかった。心のなかで燻ぶり続けているものを見透かされた気がした。
 「ショウさん、実はね。滝さん肺ガンらしいんだ。俺、ショウさんよりも先にあそこに着いてしまってどうしようかなって思ってたら園長先生に呼び止められて、たまにはお茶でもって誘われたんだけど、園長先生が滝さんの病気のことそう教えてくれた。残念だけどもう長くないらしいんだ。」
 ゴギにとってそのことがどれだけのことがはわからないけど、ゴギは淡々とした口調で僕に話してくれた。
 入り江に沿った道をゴギと歩きながら、僕は醒めた気持ちでその話を聞いていた。
 

 

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